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永遠の名作「銀河鉄道999」について(勝手に)語るブログです。主に劇場版について(好き勝手に)触れています。

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 劇場版999で、メーテルと鉄郎は2度も別れているわけです。運命的というか、両者とも覚悟していたかのようです。
 「さよなら」にいたっては、鉄郎は最初驚くものの、次第に受けて入れているに見えます。

 そのあたりの解釈はともかくとして、鉄郎に厳しい意見(批判)がぶつけられることがあります。
 すなわち、なぜメーテルと離れたのか。男ならメーテルを引っ張っていくくらいの気概がほしかった。特にメーテルのような女性は、少々強引に行かなければダメだ……。
 なんて、私の意見です(笑)。

 ただ、鉄郎に完璧を求めるのは、少々気の毒かもしれません。
 劇場版の鉄郎は、1作目で15歳、2作目で17歳のようです。つまり、現代日本では高校生に相当します。
 普通の男子高校生がどうなのかは存じませんが(私自身の高校時代は普通でなかったので)、女性の扱いというか接し方を心得ているものでしょうか? 試行錯誤、失敗を繰り返しながら学んでいく課程ではないでしょうか?

 しかも、相手は年上の、かなりしっかりした大人の女性でしょう?
 これは鉄郎にとって、かなりシンドイかもしれません。

 メーテルの実年齢は(おそらく)永遠の謎ですが、見た感じでは鉄郎と10歳差でしょうか。
 個人差もありますが、10年というのは大きいですヨ。

 考えても見てください。
 あくまでも仮の話ですが、メーテルが小学4年のときに鉄郎が生まれた。メーテルが成人式というとき、鉄郎はやっと小学4年です。

 ここからは私一人の妄想になりますが、「さよなら」のエンディングで二人が仲良く地球に行ったとしても、その生活は平坦ではないでしょう。
 それは食糧や家の確保、治安に衛生ということもありますが、やはり年齢差は障害になり得るということです。

 10歳差は大きいですよ。
 人目(奇異の目で見られる)もありますが、感覚の違い、世代間による考えの違いをどう乗り越えるかです。
 10年ひと昔といいますが、お互いに歩み寄らないと「性格の不一致」となりかねません。

 また、年上には負い目があります。
 私よりもっとふさわしい、たとえば同年代の異性と一緒になった方がいいのではないか。
 私がいることで、彼を不幸にしてしまうのではないか。

 年下にはもどかしさがある。
 年上の気持ちを、本当のところでは理解できない。
 先の「同年代の異性と一緒になった方がいいのでは」ということにしても、そんなこと気にするな、となる。でも、年上は気にする。このわだかまりにも似た感情は、いくら話し合ってもすぐには消えません。

 かなり話が逸れました。
 11歳年上の女房を持つ男の書くことなので、少しは説得力がありますか?

 脱線ついでに、矛盾したことを書きます。
 私に限って言えば、年の離れた女性と付き合ったのは、自分の若さゆえのことです。
 恐れを知らず、突き進むだけの精神力と自信がありました。

 ということは、鉄郎ならメーテルを引っ張れた?
 うむ、やはり二次小説で鉄郎に頑張ってもらうしかない(笑)。

 なら、早く今の作品(捨て猫)を完成させろよ>自分。

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 野沢雅子さんの演技力について、今さら説明は要りませんよね。
 様々な役を担当され、それぞれ素晴らしい表情を聞かせてくれています。声を変えるのではなく、そのキャラクターそのものを表現されているわけです。
 それを考えると、劇場版「銀河鉄道999」のあるシーンの解釈が違って見えるかもしれません。

 「あるシーン」とは、999が最終駅(つまり惑星メーテル)に到着し、メーテルが鉄郎と旅をしていた理由が判明した場面です。「裏切られた」と知った鉄郎は、メーテルを平手打ちにしています。

 この場面、私にとって一番のお気に入りでしてね。

 女性に手を上げたという意味で、このときの鉄郎に批判的な意見もあるようです。
 それに対する私の見解を、「捨て猫」第2話で書きました。車掌が鉄郎に語っているのは、すべて私の意見です。

 同時に、鉄郎には「手を上げた」ことを悔やんでほしかった。
 いや、悔やむか恥じるくらいはしたのでしょうかが、映画では語られていませんよね。 

 話が逸れました。

 メーテルを平手打ちにするとき、鉄っつぁんは、

「汚いぞ!」

 そう叫んでいますね。

 この声をよ~く聞いてみると、あらためて野沢さんの演技力を感じます。
 もしかしたら、監督や演出家(音響監督?)の指示というか指導もあったのでしょうか。

 ともかく、「汚いぞ」の一言に、鉄郎の複雑な感情が表現されているのではないでしょうか?

・怒り
・失望
・悲しみ
・苦しみ
・嘘であってほしい(メーテルが部品にする目的で自分をここに連れてきたこと)

 単に怒り任せて叩いたのではない。
 信じていた、思いもよらなかった、何よりも好きだから、手が出た。
 おそらく、鉄郎自身も整理できない、複雑な感情が入り乱れていたのでしょう。

 そう思うのは私だけ?
 鉄郎を庇いすぎでしょうか?

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 メーテルもパックをするのでしょうか?

 「パック」とは、女性が寝る前にお顔に塗りたくるとされる、小麦粉を溶いたような白いアレです。よくは
わかりませんが、美容に良いことなんでしょうね? メーテルが毎晩やっていたとしても(999の車中ではできないでしょうが)、不思議ではありません。

 想像したくないですねぇ。
 でも想像してしまう(笑)。

 コントやドラマなどでは、女性がパックしたまま(すなわち、まっ白な顔で)で出てきたりします。なんとも言えない雰囲気になります。
 じゃあ、メーテルも?

 幼稚園に通っていた頃、あれは土曜の午後でした。土曜は午前中で幼稚園は終わり、自宅に戻りました。先生に何かを伝え忘れた私は、再度幼稚園に行きました。裏口から入って、先生の控え室のような部屋に行ったら……。
 先生方は、出前で取ったらしいラーメンを食べていました。
 幼い私にはこれがショックでね。

 先生もラーメン食べるんだ。

 担任(?)の先生は、若くてキレイな人でした。別に恋していたわけでもないのですが、美女とラーメンが結びつかなかったのです。

 そうだ、メーテルもラーメンを食べるのかな?
 劇場版でラーメンを食べるシーンは(鉄郎も含めて)無かったはずですが、テレビ版はどうだろう? 原作は?

 今、ディアゴスティーニの分冊百科を定期購読していますが、ぜんぜん見ていません。時間無くて。
 ともかく、最初の何話目かで、鉄郎がラーメンを食べていたはずです。
 メーテルとともに食堂に入り、「本物の」ラーメンを注文する。このラーメンは「闇」というか、「大きな声では言えませんが」というシロモノらしい。値段も合成モノの何倍もする。
 このとき、メーテルはラーメン以外の物を食べたはず……あれ、どうだったかな?

 他にも、メーテルには鼻をかんでほしくないとか、口を開けたまま寝てほしくない(イビキなどもっての他)、ガムを噛んでほしくない……なんとも幼稚な願望を持っています。
 いいんです。
 メーテルは、私にとって「永遠の、憧れの、年上の女性」なので。 

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 鉄郎とメーテルはどういうカップル、あるいは夫婦になるだろう?
 その前に、鉄郎はどういう青年なのか? を考える必要がありそうです。
 
 鉄郎は、999発表当時(1970年代)の青春像ではないでしょうか? 私の勝手な想像では、中村雅俊さんが出ていたドラマのようなさわやかな若者、という感じです。
 中村さんのドラマはあまり見ていないのですが、当時の若者の共通点として、

・とにかく貧乏(金が無い、が通常)
・身なりが貧乏くさい(貧乏ですから)
・仲間を大切にする
・夢を持っている

 そんなところでしょうか。
 
 実際、当時の青春ドラマを見ると笑えます。
 服装も言い方も、何よりもストーリー自体が貧乏くさいし、かっこ悪い。今同じものを作ったら、間違いなくコメディになってしまう。
 しかし、彼らには芯があるんですね。
 今は貧乏でかっこ悪くてわびしいが、このままでは終わらない、そして辛いとは思っていない。回りも貧乏ですから、それが当然だと思っているようです。金が無いなら無いなりに楽しんでいます。

 劇場版2作目の惑星モザイクにて、メーテルがいいことを言っていますね。
 詳細は忘れましたが、

「若者はね、負けることは考えないものよ。一度や二度しくじっても、いつか必ず勝つと考えて立ち向かっていく。昔はそんな若者が大勢いたわ」

 すいません、中年オヤジの記憶なので間違っているかもしれません。
 ともかく、鉄郎はメーテルのセリフそのものですね。若者特有の無鉄砲さを持っています。
 その、がむしゃらな性格でメーテルを引張っていってほしかったなぁ……。

 さて、劇場版「さよなら」の数年後に二人が再会したとして、メーテルには鉄郎がどう映るでしょうか。メーテルはかなり年齢を重ねているようですから(この辺りは諸説ありますが)、若者というより子供に見えるのでしょうか。それでも「男」を感じるのか。
 男(というよりオッサン)の私には、この辺の心理はわからんですな。

 というわけで、想像(いや妄想)は続きます。

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 「銀河鉄道999」には、原作(漫画版)とテレビアニメ版、そして(私が愛してやまない)劇場版があるわけです。今世紀になって「エターナル編」が発表されましたが、あえて触れずにおきましょう。
 3作に細微な違いがありますね。特に原作・テレビ版の鉄郎は10才ですが、劇場版は1作目が15才、2作目が17才(と推測されます)なわけです。これがまた賛否があるようで、
「(劇場版は)鉄郎がかっこよくなっているからキライだ」
 そのように言う人もいます。
 私としては、テレビ版の鉄郎が子供っぽくて(子供ですから当然ですが)、かなり違和感があります。
 さて、3作の特徴として、結末というか結果が同じです。過程に違いはあるにせよ、メーテルの立場、終着駅の破壊、二人の別れは共通しています。
 これ、面白いですね。

 少々古い作品ですが、タイガーマスクは原作とテレビ版で結末が違います。
 原作の主人公は、大切な試合を目前にして、子供を救おうとして車に跳ねられます。そして、タイガーマスクではなく「伊達直人」として亡くなります。一方テレビ版では、最後に正体を明かして去って行きます。
 余談ですが、主人公のタイガーマスク=伊達直人の声は富山敬さんです。大山トチローやミャウダー(いずれも劇場版の登場人物ですね)の声の主でもあります。タイガーマスクが守ろうとした孤児施設の子供の一人が野沢雅子さんです。後の星野鉄郎と大山トチローが競演していたわけです。

 話が逸れました。
 原作とアニメ版では設定や結末が異なるのは、よくある話です。
 その点、999は原作とテレビ版に大きな違いはないようです。
 今回述べたいのは、999の結末が違っていたら、ということです。つまり、ハッピーエンドになっていたら、30年も人気が続かなかったのではないでしょうか。

 日本では、と限定してよいかわかりませんが、悲劇や哀愁を好む傾向があるかもしれません。古くは平将門、源義経、楠木正成、少し飛んで白虎隊。
 もし、劇場版のラストがハッピーに終わっていたら?
 鉄郎とメーテルが地球に着いて、所帯を持って、苦労しながら寄り添って、そのうち子供が生まれて……。それはそれで良いのでしょうが、「さよなら」の衝撃的な別れがあったからこそ、30年も999を引きずっているのではないでしょうか。

 あのあとメーテルはどうなったんだ!
 何が青春の幻影だ!
 メーテルは苦しんで悲しんで辛い思いをして、やっと幸せになるかとおもったのに!
 あのままメーテルはず~っと一人でいるのか!
 そんなことってあって良いのか、いや良くない(反語)。

 などとまあ、いいトシしたオヤジがそんなことを考えた結果が私です(笑)。

 悲劇だったからこそ、二次創作でそれを覆したい。別れてしまったからこそ、「実はその後に再会した」としたい。
 ハッピーエンドはそれは気持ちの良いものですが、そこで満足して終わってしまうのですね。特に999はどこか哀愁がありますので、余計に悲劇が似合うのかもしれません。

 というわけで、私の中では「さよなら」で終わっていないのです。

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