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永遠の名作「銀河鉄道999」について(勝手に)語るブログです。主に劇場版について(好き勝手に)触れています。

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 鉄郎とメーテルはどういうカップル、あるいは夫婦になるだろう?
 その前に、鉄郎はどういう青年なのか? を考える必要がありそうです。
 
 鉄郎は、999発表当時(1970年代)の青春像ではないでしょうか? 私の勝手な想像では、中村雅俊さんが出ていたドラマのようなさわやかな若者、という感じです。
 中村さんのドラマはあまり見ていないのですが、当時の若者の共通点として、

・とにかく貧乏(金が無い、が通常)
・身なりが貧乏くさい(貧乏ですから)
・仲間を大切にする
・夢を持っている

 そんなところでしょうか。
 
 実際、当時の青春ドラマを見ると笑えます。
 服装も言い方も、何よりもストーリー自体が貧乏くさいし、かっこ悪い。今同じものを作ったら、間違いなくコメディになってしまう。
 しかし、彼らには芯があるんですね。
 今は貧乏でかっこ悪くてわびしいが、このままでは終わらない、そして辛いとは思っていない。回りも貧乏ですから、それが当然だと思っているようです。金が無いなら無いなりに楽しんでいます。

 劇場版2作目の惑星モザイクにて、メーテルがいいことを言っていますね。
 詳細は忘れましたが、

「若者はね、負けることは考えないものよ。一度や二度しくじっても、いつか必ず勝つと考えて立ち向かっていく。昔はそんな若者が大勢いたわ」

 すいません、中年オヤジの記憶なので間違っているかもしれません。
 ともかく、鉄郎はメーテルのセリフそのものですね。若者特有の無鉄砲さを持っています。
 その、がむしゃらな性格でメーテルを引張っていってほしかったなぁ……。

 さて、劇場版「さよなら」の数年後に二人が再会したとして、メーテルには鉄郎がどう映るでしょうか。メーテルはかなり年齢を重ねているようですから(この辺りは諸説ありますが)、若者というより子供に見えるのでしょうか。それでも「男」を感じるのか。
 男(というよりオッサン)の私には、この辺の心理はわからんですな。

 というわけで、想像(いや妄想)は続きます。

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 「銀河鉄道999」には、原作(漫画版)とテレビアニメ版、そして(私が愛してやまない)劇場版があるわけです。今世紀になって「エターナル編」が発表されましたが、あえて触れずにおきましょう。
 3作に細微な違いがありますね。特に原作・テレビ版の鉄郎は10才ですが、劇場版は1作目が15才、2作目が17才(と推測されます)なわけです。これがまた賛否があるようで、
「(劇場版は)鉄郎がかっこよくなっているからキライだ」
 そのように言う人もいます。
 私としては、テレビ版の鉄郎が子供っぽくて(子供ですから当然ですが)、かなり違和感があります。
 さて、3作の特徴として、結末というか結果が同じです。過程に違いはあるにせよ、メーテルの立場、終着駅の破壊、二人の別れは共通しています。
 これ、面白いですね。

 少々古い作品ですが、タイガーマスクは原作とテレビ版で結末が違います。
 原作の主人公は、大切な試合を目前にして、子供を救おうとして車に跳ねられます。そして、タイガーマスクではなく「伊達直人」として亡くなります。一方テレビ版では、最後に正体を明かして去って行きます。
 余談ですが、主人公のタイガーマスク=伊達直人の声は富山敬さんです。大山トチローやミャウダー(いずれも劇場版の登場人物ですね)の声の主でもあります。タイガーマスクが守ろうとした孤児施設の子供の一人が野沢雅子さんです。後の星野鉄郎と大山トチローが競演していたわけです。

 話が逸れました。
 原作とアニメ版では設定や結末が異なるのは、よくある話です。
 その点、999は原作とテレビ版に大きな違いはないようです。
 今回述べたいのは、999の結末が違っていたら、ということです。つまり、ハッピーエンドになっていたら、30年も人気が続かなかったのではないでしょうか。

 日本では、と限定してよいかわかりませんが、悲劇や哀愁を好む傾向があるかもしれません。古くは平将門、源義経、楠木正成、少し飛んで白虎隊。
 もし、劇場版のラストがハッピーに終わっていたら?
 鉄郎とメーテルが地球に着いて、所帯を持って、苦労しながら寄り添って、そのうち子供が生まれて……。それはそれで良いのでしょうが、「さよなら」の衝撃的な別れがあったからこそ、30年も999を引きずっているのではないでしょうか。

 あのあとメーテルはどうなったんだ!
 何が青春の幻影だ!
 メーテルは苦しんで悲しんで辛い思いをして、やっと幸せになるかとおもったのに!
 あのままメーテルはず~っと一人でいるのか!
 そんなことってあって良いのか、いや良くない(反語)。

 などとまあ、いいトシしたオヤジがそんなことを考えた結果が私です(笑)。

 悲劇だったからこそ、二次創作でそれを覆したい。別れてしまったからこそ、「実はその後に再会した」としたい。
 ハッピーエンドはそれは気持ちの良いものですが、そこで満足して終わってしまうのですね。特に999はどこか哀愁がありますので、余計に悲劇が似合うのかもしれません。

 というわけで、私の中では「さよなら」で終わっていないのです。

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「さよなら銀河鉄道999」についてのコラムを見つけました。編集長(小黒祐一郎さん)が、少々辛口の、しかし実に鋭い考察をされています。

「WEBアニメスタイル」の中のコラム
(第83回『さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅』


 りんたろう監督も「(2作目は)1作目に比べて輝きが足りない」というようなことをおっしゃっていたようですし、先のコラムの意見はもっともなことです。
 それでも私は、2作目が好きです。1作目はあくまでも鉄郎の「少年」が、2作目は「青年になるところ」が描かれています。甲乙付けがたいと感じるのは私だけ?
 また、まったくの私事ですが、2作目がなかったら今の私はいません。大仰なことを言えば、とうに死んでいたかもしれません。人の生きる道は、巡り合わせですからね。

 先のコラムには鋭い、唸ってしまうことがたくさん書かれていますが、1つだけモノ申したい。メタルメナを「体が透明なウェイトレス」としているのはご愛嬌です。クレアと混同しているものと思われます。
 さて、コラムの中で「黒騎士ファウストと鉄郎がなぜ戦わなければならないのか、わからない」とあります。この文章の前後にはその背景が書かれていて、その疑問はもっともなことだと感じさせます。ただ、私は初めて「さよ銀」を見たとき、すぐに二人の両立は無いと思いました。
 黒騎士ファウストは、言うまでもなく鉄郎の実父(一説には物野正?)ですが、ハーロックにこう言い残していますね。
「この戦いに勝たない限り、私にも鉄郎にも未来はない」
 「未来はない」か「明日はない」だったかは忘れました。ともかく、戦いは避けられないと言っているのですね。
 どうやら父は、なんとか息子を呼び寄せて一緒に暮らしたいと考えたようです。機械化帝国の素晴らしさを理解させ、親子で過ごしたかったのでしょう。しかし、その結果はご存知のとおりです。鉄郎は黒騎士=実父と知らないにせよ、結局は意思を変えませんでした。最後には、999の屋根で撃ち合いとなります。
 ファウストとしては、機械化帝国への崇拝を変えるつもりはない。その意思を貫き通すためには、たとえ相手が実の息子であっても容赦はしない。むしろ、あらためて機械化帝国を否定した息子は、他の誰でもなく自分が始末しなければならない。
 もし、ファウストが、「息子だから」と鉄郎を逃すことになったら。いや、ダメですね。おそらくハーロックやトチローが同じ立場なら、ファウストと同じ行動を取ったでしょう。
 一方、鉄郎にしても同じです。ファウストが実の父だと知っていたとしても、やはり倒そうとしたでしょうね。それどころか、実父だと知ったらなおのこと戦うでしょう。メーテルがプロメシュームの息の根を止めようとしたように。

 しかし嬉しいですね。999についてこれほどまでに真剣に書かれた文章は、かつてよりは少なくなったでしょう。恥ずかしながら、WEBアニメスタイルというサイトも小黒祐一郎さんのことも存知ませんでした。インターネットという文明の利器のおかげですね。
 いい時代に生まれました。長生きはすべき、なのかもしれませんね。

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 劇場版「銀河鉄道999」のエンディングは、メーテルが999号に乗って去っていく、鉄郎が走って追う、ついに999号は走り去る、鉄郎は涙する。だいたいそんな感じですよね。
 以前から疑問でしたが、鉄郎の顔(表情)とセリフが合っていません。鉄郎は走り出し、メーテルの乗る客車に追いつきますよね。本当なら、追いつくこと自体が無理でしょうけどね(笑)。鉄郎はかなりの俊足ということになりますし、気のせいか999号自体も速度を落としているように見えます。なんて、それは言わない約束ですって!

 ともかく、メーテルの乗る客車に追いついた鉄郎。気付いて窓を開けるメーテル。泣かせるシーンなのですが(今涙目で書いていますヨ)、鉄郎は笑顔に見えます。それに対し、声の調子は今にも泣きそうな感じです。
 変ですよね?
 あくまでも私の推測ですが、脚本家や演出家(音響監督?)は「笑顔でさわやかに別れる」シーンとしたかったのでは? メーテルは青春の幻影、若い鉄郎はこれから大人になる……というところでしょうか。
 それに対し、鉄郎役の野沢雅子さんとしては、どうしても泣きの演技になったのでは?
 このエンディングでは二人のマサコ(野沢雅子さん・池田昌子さん)が感極まって涙ぐんだといいます。スタッフももらい泣きしたそうですから、その雰囲気は説明の必要がないですよね。
 それに、「一緒に暮らしてほしい」とまで言った相手と別れるんですよ。笑顔でいる方が不自然です。その証拠に、999号が去ってから鉄郎は涙していますよね。野沢さんの「悲しそうな声」が正解ですよね?

 まあ、細かいことは気にするなって話です。
 「ローマの休日」だって、おかしな点があるようですよ。スペイン広場(だったかな?)のシーンでは、背後の時計台の時刻が不自然に変化していました。二人はローマ市内を観光していますが、実際にはかなり厳しいスケジュールだとか。
 でも、どうでもいいことです。「ローマの休日」が名作であることには変わりありません。
 そういえば、アン王女(オードリー・ヘップバーン)の吹替えは池田昌子さんですね。

 劇場版「銀河鉄道999」のエンディングで、二人のマサコが涙した話の補足です。
 ご存知の方はご存知でしょうが、劇場版999が一番最初に結末に達しています。つまり、劇場版999公開時点では、原作もテレビ版も連載中・放映中だったわけです。にもかかわらず劇場版は、999号の最終駅やメーテルの(ある程度の)正体を明かしてしまったわけです。
 一方、二人のマサコにしてみれば、テレビ版で長くコンビを組んできた。お互いに嫉妬しあったこともあった。その999が結末を迎え、メーテルと鉄郎が別れる。これで泣かずにいられますか?

 あの、もしかして涙しているのは私だけ? 一人で熱くなって語っているだけ?

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 食堂車に行ったことはありますか。
 今の日本では希少なものになりましたね。新幹線には連結されていないようですし、食堂車で食べたいと思ったら少し苦労するかもしれません。列車の高速化により乗車時間が短縮(列車内で食事する必要性が薄れる)、駅弁の発達、高速道路や飛行機の躍進、食堂車が廃れてしまったのも、致し方ないのかもしれません。
 さて、今回は999の食堂車について考察してまいります。

 「銀河鉄道999」がこの世に出たのは1977年(昭和52年)だそうですから、今から35年前ですね。当然ながら、インターネットも携帯電話もなく、家庭の電話はNTTでなく電電公社の黒電話、コードレス電話もなく、それどころかテレフォンカードもなかったですよね。999の食堂車を考えるとき、このような時代背景に目を向ける必要がありそうです。
 当時は飛行機や自動車よりも、長距離列車への依存度が高かったのではないでしょうか。たとえば東京から札幌に行く場合、飛行機よりも寝台車(そして青函連絡船)を利用することが、今よりは多かったのかもしれない。食堂車も普通にあったのかもしれませんし、乗客もそこで食事するのが普通だったのでしょうか。
 また、鉄郎は食堂車でビフテキを食べていますが、当時(昭和50年代)は値段の張るものだったはずです。今でも安価な食べ物ではないですし、ましてや当時は牛肉自由化の前です。ビフテキ=なかなか食べられないご馳走というイメージが、今よりももっと強かったのではないでしょうか。私事ですが、自宅で牛肉料理、例えばすき焼きを食べたのは、おそらく原作の鉄郎より年上になってからです。
 さらに、このあたりは原作者・松本零士氏の思想が色濃く反映されているのでしょう。999のグルメといえば、ラーメンがありますよね。特に原作では、合成でなく本物のラーメンを前に鉄郎が涙ぐむシーンさえあります。「人類の口の永遠の友」だ、と。松本氏はインタビューか何かで、「一杯のラーメンをご馳走と思えない人はだめだ」というようなことを言っていました。おそらく、いわゆるハングリー精神の重要性を説いているのでしょうね。

 男性の皆様。目を閉じてください。中学生くらいのときの自分にもどってください。
 今、慣れない高級そうな場所、食堂車の席に着いている。目の前には長髪の、25歳くらいの美しい女性がいる。そればかりか、やはり美人で性格もいいウェイトレスに、突然手を握られた。
「あなたの手、暖かい……」
 どうです? 胸がキュンとなりませんか?(笑)
 あくまで想像ですが、鉄郎クンが初めて触れた異性は、クレアだったのかもしれません。「握られた」のは間違いなくクレアでしょう。

 話が逸れました。
 ネットで食堂車を調べていたら、ある写真を目にしました。おそらく昭和50年前後の、当時の食堂車で食事をする男の子の姿です。おそらく夏休みか何かで、どこかにお出かけの途中でしょう。長距離列車、それも寝台車という可能性もあります。男の子は興奮気味に乗車し、そして食堂車も楽しい想い出となったのでしょう。
 そうした古いものは失われていくのですね。その代わり、効率化、合理化の名のもとに、便利になっていきます。懐古主義に浸りたくはありませんが、文明の進化と同時に何かを失ったということです。山田洋次さんは「形あるものは、いつか目の前から消えていく」というようなことをおっしゃったようです。
 消え行くものに感じる寂しさが、一段と強いものになりました。私もトシをとりましたね。

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